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「たかがエンタテイメント」で納得してはお終いよ!
- 2007.02.05 Monday
- 映画
- 12:27
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- by 妖怪の街のホームレス
やっぱり、エンタテイメントはどこか変!
映画「ホテル ルワンダ」を観た。公式サイトはここ、(http://www.hotelrwanda.jp/)
1994年、ルワンダで起きた内戦での虐殺を「描いた!」映画である。100日で百万人が虐殺された中で、1200人を外国企業のホテル・ルワンダに匿い困難の末助けた男の実話である。外国は、この国がアフリカだということで、身近な認識がなく資本主義の原理で救うメリットもなく、無力な国連軍さえ引き揚げて、黒人ばかりが残って内戦が勃発する。
さて、この映画、実話とはいえ映画であるからドキュメンタリータッチで描くと物語にならないわけで、やはり映画的なエンタテイメントの要素は十分加味されている。まず「音楽」である。そして、あの無味乾燥なニュース報道のように実写で訴えるのではなく、主人公をドラマチックに設定する。敵対する相手の種族から妻をめとっており、所謂「愛」のドラマであり、夫婦絆の映画でもあるところもエンタテイメントタッチである。 映画制作は、南アフリカ、イギリス、イタリアであり、決してメジャーなルートでの製作ではなかった。だから宣伝効果もない。アメリカでやっと、一部の映画館で上映されただけだった。日本などは、上映予定などまったくなかった映画だが、インターネットの口コミで上映規模が世界的に広がったものである。日本ではやっと今年の一月、全国に広まったばかりである。エンタテイメントでなければ何事も始まらない世代にこの映画をアピールするには、この映画が、世界に知らされるにおいて緊急を要するものだったにもかかわらず、日本などでは、やっと今年になってからであるから、エンタメ思考がいかに、すべての認識を「停止」させるかがわかるであろう。
インターネットの前田有一氏の映画評などひどいものだ。「スリリングなサバイバルドラマである」となる。(http://movie.maeda-y.com/movie/00659.htm)と唱っているのである。なるほど、そうかもしれない。冷静に考えればそうなのだが、その導く言説がいけない。「パールハーバー」のように戦後60年も70年も経っていて、それをエンタテイメントとして楽しむというのならまだ解るのだが、歴史的にそれほど時間が経過していない史実を描くには、さまざまな困難が伴う。同時多発テロを描いた、ハリウッド映画もあるが、これを、今上映中の「硫黄島からの手紙」(イーストウッド監督の日本側からの視点とアメリカ側からの視点でみる二つの作品)などと同列において「観る」のには、大きな誤差が生じるはずである。野茂英雄のように、たかがエンタテイメントではないか!などと言っておれない場合には、エンタテイメントでの表現は大きな限界がある。カナダ製作の日本人拉致家族の映画もそうである。ドラマチックで感動的になるのはよいが、感動が示唆するものはそれだけでよいのであろうか?また、逆に、感動から直接、現実選択行為が発生するというのも問題がある。サルトルではないが、アンガジェマンへの移行には、直情よりも、思考吟味が伴うことも重要であるだろう。「表現」にはなかなか難しい問題が伴うのである。「ホテルルワンダ」は、どちらかというと、観るものをじっとさせておかない要素があって、その「感動」が、なんとかしなければという気分を促すが、とても無力を感じてしまい、虚しさが発生する。こうなれば、どうしても、哲学的要素が必要になってくる。観客としてそこに留まるならば、それなりにどうしても、留まっただけのものを得なければならない。それには、人間の戦いの要素、その本能にまで掘り下げられる、真実への探求くらいしかできないからである。せめて、留まったままであるなら、その真実への思考を求めなければならないだろう。エンタテイメントの感動と高揚が、そのための力となるように、「エンタテイメント」の感動を最大限に浴びておきたたいものである。映画評が振るっている、「この映画は希望に満ちた勇気を与える、難しいことは考えず楽しんで観ていただきたい」とある。なんという、観客への媚であろうか!そこで募金でも起これば、これで一件落着というわけである。しかも、何種類もこの手の映画はあって、ほかの映画とは一味も二味も違うと評しているが、こういういう優劣の問題とは違うのではないか?何もできない、遠隔地にいる我々観客がせめてもできることは、感動の結果を研ぎ澄まし、哲学的結論をせめて出し切ることしかできないはずなのだ。観客は国連職員にも、兵士にもなれない宿命なのだ。ならばそういう人間に訴えるのなら、たとえ難しくとも、居ながらにしかできない、せめてもの方法へ導くことでなければ、いったいどうする?遠隔地にいる人間にできることは、働きながら、殺しあってしまう人間の業の、いったい何故?という回答を得ることしかできないのである。ここで、思考を止めると、また同じ種類のエンタテイメントを観て、また同じ繰り返しになってしまうであろう。この答えは、確かに難しい。一生、逡巡させられるだろう。しかし、それを、難しいといって避けるのは、何の意味もない。「難しさ」にもっと素直になりたいものだ。それが、野茂のいう、「何が重要かを的確に知り得た頭脳のいうこと」ではないだろうか?
映画「ホテル ルワンダ」を観た。公式サイトはここ、(http://www.hotelrwanda.jp/)
1994年、ルワンダで起きた内戦での虐殺を「描いた!」映画である。100日で百万人が虐殺された中で、1200人を外国企業のホテル・ルワンダに匿い困難の末助けた男の実話である。外国は、この国がアフリカだということで、身近な認識がなく資本主義の原理で救うメリットもなく、無力な国連軍さえ引き揚げて、黒人ばかりが残って内戦が勃発する。
さて、この映画、実話とはいえ映画であるからドキュメンタリータッチで描くと物語にならないわけで、やはり映画的なエンタテイメントの要素は十分加味されている。まず「音楽」である。そして、あの無味乾燥なニュース報道のように実写で訴えるのではなく、主人公をドラマチックに設定する。敵対する相手の種族から妻をめとっており、所謂「愛」のドラマであり、夫婦絆の映画でもあるところもエンタテイメントタッチである。 映画制作は、南アフリカ、イギリス、イタリアであり、決してメジャーなルートでの製作ではなかった。だから宣伝効果もない。アメリカでやっと、一部の映画館で上映されただけだった。日本などは、上映予定などまったくなかった映画だが、インターネットの口コミで上映規模が世界的に広がったものである。日本ではやっと今年の一月、全国に広まったばかりである。エンタテイメントでなければ何事も始まらない世代にこの映画をアピールするには、この映画が、世界に知らされるにおいて緊急を要するものだったにもかかわらず、日本などでは、やっと今年になってからであるから、エンタメ思考がいかに、すべての認識を「停止」させるかがわかるであろう。
インターネットの前田有一氏の映画評などひどいものだ。「スリリングなサバイバルドラマである」となる。(http://movie.maeda-y.com/movie/00659.htm)と唱っているのである。なるほど、そうかもしれない。冷静に考えればそうなのだが、その導く言説がいけない。「パールハーバー」のように戦後60年も70年も経っていて、それをエンタテイメントとして楽しむというのならまだ解るのだが、歴史的にそれほど時間が経過していない史実を描くには、さまざまな困難が伴う。同時多発テロを描いた、ハリウッド映画もあるが、これを、今上映中の「硫黄島からの手紙」(イーストウッド監督の日本側からの視点とアメリカ側からの視点でみる二つの作品)などと同列において「観る」のには、大きな誤差が生じるはずである。野茂英雄のように、たかがエンタテイメントではないか!などと言っておれない場合には、エンタテイメントでの表現は大きな限界がある。カナダ製作の日本人拉致家族の映画もそうである。ドラマチックで感動的になるのはよいが、感動が示唆するものはそれだけでよいのであろうか?また、逆に、感動から直接、現実選択行為が発生するというのも問題がある。サルトルではないが、アンガジェマンへの移行には、直情よりも、思考吟味が伴うことも重要であるだろう。「表現」にはなかなか難しい問題が伴うのである。「ホテルルワンダ」は、どちらかというと、観るものをじっとさせておかない要素があって、その「感動」が、なんとかしなければという気分を促すが、とても無力を感じてしまい、虚しさが発生する。こうなれば、どうしても、哲学的要素が必要になってくる。観客としてそこに留まるならば、それなりにどうしても、留まっただけのものを得なければならない。それには、人間の戦いの要素、その本能にまで掘り下げられる、真実への探求くらいしかできないからである。せめて、留まったままであるなら、その真実への思考を求めなければならないだろう。エンタテイメントの感動と高揚が、そのための力となるように、「エンタテイメント」の感動を最大限に浴びておきたたいものである。映画評が振るっている、「この映画は希望に満ちた勇気を与える、難しいことは考えず楽しんで観ていただきたい」とある。なんという、観客への媚であろうか!そこで募金でも起これば、これで一件落着というわけである。しかも、何種類もこの手の映画はあって、ほかの映画とは一味も二味も違うと評しているが、こういういう優劣の問題とは違うのではないか?何もできない、遠隔地にいる我々観客がせめてもできることは、感動の結果を研ぎ澄まし、哲学的結論をせめて出し切ることしかできないはずなのだ。観客は国連職員にも、兵士にもなれない宿命なのだ。ならばそういう人間に訴えるのなら、たとえ難しくとも、居ながらにしかできない、せめてもの方法へ導くことでなければ、いったいどうする?遠隔地にいる人間にできることは、働きながら、殺しあってしまう人間の業の、いったい何故?という回答を得ることしかできないのである。ここで、思考を止めると、また同じ種類のエンタテイメントを観て、また同じ繰り返しになってしまうであろう。この答えは、確かに難しい。一生、逡巡させられるだろう。しかし、それを、難しいといって避けるのは、何の意味もない。「難しさ」にもっと素直になりたいものだ。それが、野茂のいう、「何が重要かを的確に知り得た頭脳のいうこと」ではないだろうか?
ところで脳科学の本、「危険な脳はこうして作られる」(吉成真由美)にも、文学的示唆のある記述がある。これは、「エンタテイメント」がいかに文学的思考を停止させるかという示唆に富んだ会話である。この会話は、当代トップの、それぞれの分野に特化した頭脳の英才的持ち主の会話であるから実に面白い。登場人物は、野球界の野茂英雄、音楽界の小沢征爾、科学界の利根川進のそうそうたるメンバーである。小沢も利根川も、大の野球ファンで、この集まりは、野茂を中心とした集まりであったのだが、話題が映画「パールハーバー」についての時だった。この映画は、アメリカとの戦いのきっかけになった、日本軍の奇襲が描かれるものだが、この映画がアメリカよりに傾いていて、日本人を悪く扱っていると、小沢が切り出すのである。
「あれはちょっと問題なんじゃないか。日本側が、随分理不尽に描かれてるんですよね」
「そうなんですよ。しかも日本版は四ヵ所もカットして、日本人を刺激しないようにしているんだそうです」と利根川。
「あのまま放っといていいんですかね。やっぱり日本政府が、正式に抗議すべきなんじゃないか」
アメリカというところは、何事においても「フェアーであるかどうか」というのが判断の基準となる。フェアーでないことがあれば、フェアーでない点を明確にしてキチンと議論し、対処すべきなのである。でなければ何事も起こらないし、改善されない。アメリカで生活している面々は、小沢氏の発言に、けだしもっともだと頷く。
とそれまで黙々と天ぷらを食していた野茂氏が、おもむろに、「いったい何が問題なんですか」とポソリ一言。「あれは単に映画でしょ。エンタテイメントでしょ。誰もあれが事実なんて思ってないですよ」と、すかさず小沢氏、
「あなたはまだ若いから、あまり日本国に対して強い思い入れがないかも知れないけどね・・・」。受けて野茂氏、
「僕の仲間もミニいきましたけど、誰もあれを見て、日本人は悪い奴だなんていう感想を持ってなかったですよ。みんなエンタテイメントとして楽しんだだけです」。
そこで利根川氏が、
「まあ、大人はまだそれでもいいかも知れないけれど、何の知識もない子供達が見て、日本人を誤解するっていうのは、やっぱり問題なんじゃないか」。
「そうだよねえ」と小沢氏も深く頷く。
と、一呼吸あって野茂氏、「その為に親がいるんじゃないですか」
「エ・・・・?」
「子供が映画を見て誤解するような事があれば、それを直してやるのが親の役目じゃないですか」
「・・・・」
「あの映画を見て、皆日本人が悪いと思うかどうかわかんないですよ。人によっては、ゼロ戦が格好イイと憧れるかも知れないし・・・」
「・・・」
「それに日本人全員がいい人とは限らない。いい奴もいればいやな奴もいる訳です。アメリカ人だって同じです」
要するに、「日本人が誤解されているから抗議すべき」と一律に言っても、現実にはイイ人もそうでない人もいるのだから、果たして全体を盲目的にかばう事にどれ程の意義があるのか、というわけである。しかも人命にかかわるような政治問題ならまだしも、エンタテイメントじゃないかと。
「・・・ウーン」と、全員唸る。
「なにか、このー、目からウロコっていう感じだね」と小沢氏。もともと野茂氏の大ファンだという前提があるにせよ、全員深く感じいったことには違いない。皆、野茂氏が「何が基本的に重要であるか」ということを明確に把握している点に、感心したのであった。
この後、それぞれの、この三人の特化した自身のプライオリティについて、この本の作者吉成真由美は、その「脳」について言説していくのであるが、とりあえずはここまでを考えてみる。
ここで言われていることは「表現」が「エンタテイメント」となったとき、いかに、すべての問題が「現実」から離れて、すべてが「架空」に帰し、それ以上発展するなと、思考を止めてしまうことだ。ここで、思考を促し、発展的に問題化することを、禁忌する態度が生まれる。「エンタテイメント」の感動とはいったい何だろう?歴史は歴史で考察すればよいということであろうか?
「あれはちょっと問題なんじゃないか。日本側が、随分理不尽に描かれてるんですよね」
「そうなんですよ。しかも日本版は四ヵ所もカットして、日本人を刺激しないようにしているんだそうです」と利根川。
「あのまま放っといていいんですかね。やっぱり日本政府が、正式に抗議すべきなんじゃないか」
アメリカというところは、何事においても「フェアーであるかどうか」というのが判断の基準となる。フェアーでないことがあれば、フェアーでない点を明確にしてキチンと議論し、対処すべきなのである。でなければ何事も起こらないし、改善されない。アメリカで生活している面々は、小沢氏の発言に、けだしもっともだと頷く。
とそれまで黙々と天ぷらを食していた野茂氏が、おもむろに、「いったい何が問題なんですか」とポソリ一言。「あれは単に映画でしょ。エンタテイメントでしょ。誰もあれが事実なんて思ってないですよ」と、すかさず小沢氏、
「あなたはまだ若いから、あまり日本国に対して強い思い入れがないかも知れないけどね・・・」。受けて野茂氏、
「僕の仲間もミニいきましたけど、誰もあれを見て、日本人は悪い奴だなんていう感想を持ってなかったですよ。みんなエンタテイメントとして楽しんだだけです」。
そこで利根川氏が、
「まあ、大人はまだそれでもいいかも知れないけれど、何の知識もない子供達が見て、日本人を誤解するっていうのは、やっぱり問題なんじゃないか」。
「そうだよねえ」と小沢氏も深く頷く。
と、一呼吸あって野茂氏、「その為に親がいるんじゃないですか」
「エ・・・・?」
「子供が映画を見て誤解するような事があれば、それを直してやるのが親の役目じゃないですか」
「・・・・」
「あの映画を見て、皆日本人が悪いと思うかどうかわかんないですよ。人によっては、ゼロ戦が格好イイと憧れるかも知れないし・・・」
「・・・」
「それに日本人全員がいい人とは限らない。いい奴もいればいやな奴もいる訳です。アメリカ人だって同じです」
要するに、「日本人が誤解されているから抗議すべき」と一律に言っても、現実にはイイ人もそうでない人もいるのだから、果たして全体を盲目的にかばう事にどれ程の意義があるのか、というわけである。しかも人命にかかわるような政治問題ならまだしも、エンタテイメントじゃないかと。
「・・・ウーン」と、全員唸る。
「なにか、このー、目からウロコっていう感じだね」と小沢氏。もともと野茂氏の大ファンだという前提があるにせよ、全員深く感じいったことには違いない。皆、野茂氏が「何が基本的に重要であるか」ということを明確に把握している点に、感心したのであった。
この後、それぞれの、この三人の特化した自身のプライオリティについて、この本の作者吉成真由美は、その「脳」について言説していくのであるが、とりあえずはここまでを考えてみる。
ここで言われていることは「表現」が「エンタテイメント」となったとき、いかに、すべての問題が「現実」から離れて、すべてが「架空」に帰し、それ以上発展するなと、思考を止めてしまうことだ。ここで、思考を促し、発展的に問題化することを、禁忌する態度が生まれる。「エンタテイメント」の感動とはいったい何だろう?歴史は歴史で考察すればよいということであろうか?
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